2012/06/15

サマルカンドのシンボル



8世紀のイスラム聖職者ムハッマド・イブン・イドリスによると、大昔サマルカンドの場所に町が初めて出来た日、ゼラフシャン山脈から豹が降りて来ました。町の周囲を回ってみて、ここに住んでもいいよと承認してサマルカンドに来た人々を祝福しました。それから山の方に戻ったという伝説です。その時から、豹は町の保護動物になり、サマルカンドのシンボルになりました。サマルカンド人は豹のように自尊心があって、正直で、その心が求めるのは美と名誉だけだとイブン・イドリスが書いています。
1404年にサマルカンドを訪れたスペインの使節ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの旅行記にも、チムル帝国の前の時代に豹はサマルカンドのシンボルとして旗や章などに描かれていたと書いてあります。
アミル・ティムールの時代に(14-15世紀)豹が人々からほとんど忘れられていました。その理由はアミル・ティムールは自分のエンブレムとしてタムガと言う3つの黒い円を選んだからです。14世紀に世界はアジア、アフリカとヨーロッパから成り立っていると信じられていました。全世界の王様になりたいと言う希望を込めたタムガはその時代の旗や貨幣やティムールの印章などによく現れています。


16世紀になって、アミル・ティムール帝国はシャイバーニー・ハーン国に滅ぼされた後、豹は又登場します。今度はレギスタン広場にあるシェル・ドル・メドレセです。イスラム教には偶像崇拝は禁じられているのに、どうしてこのイスラム建築の神学校の入り口のところにライオンか虎に見える動物が描かれているとよく観光客の質問が出ますね。




1619年にシェル・ドル・メドレセの建設を命令した王様はヤラングトゥシュ・バハドゥル、カザフ系の人だったが、建築家はペルシアの人でした。
古代ペルシアのゾロアスター教でライオンは最高神、光のアフラ・マズダーのシンボルでした。そして、中世のマニ教においての光明神、太陽と同一視されたミトラのシンボルでもありました。その起源は獅子宮は太陽の実家であるというメソポタミア天文学の考えです。太陽が最も高く上がる夏至日は621日頃、獅子宮に留まる時です。百獣の王、力強いライオンは王様の権力の象徴でもありました。
9世紀中央アジア生まれの占星術師アブー・マーシャルの作品から

1979年までにイランの国章にシルバーの剣を持ったライオンと太陽のシンボルが印されていました。
ペルシア、モンゴル、アラブ、突厥の伝統の結合である太陽とライオンのシンボルは12世紀から中央アジアにも広く普及されました。が、ここは獅子よりもっと有名な豹に変わりました。


イスラム教では、動物や人間を描く人は自分を地球全ての創造主と同じ立場になろうと欲望を抱いていると考えられています。又、なにかを描くとそれは神様の代わりに崇拝の対象になってしまう恐れがあります。なので、大昔からイスラムの建物などの飾りとして、幾何学的な模様やアラベスクなどが使われていました。しかし、どんな規則があっても、それをうまく回避する方法はあるでしょう。昔の建築家たちは神様の創造でなく実際に存在しない動物だったら、描いてもいいでしょうと考え出しました。その結果は今のシェル・ドル・メドレセにあるファンタスティックなライオンか豹のような動物です。

ところで、シェル・ドルの太陽に描かれている顔は女性の顔です。ペルシア語でフルシド・ハヌム、太陽の女王と言います。



この頃、サマルカンドを訪れる旅行者はこの絵をよく目にするでしょう。

1994年に出来たサマルカンドのエンブレムです。それを描いたのはグリゴリ・ウリコ(Григорий Ильич Улько) (1925 – 1999 )、サマルカンドの優れたアーティストでした。エンブレムのインスピレーションになったのはソグド人の神話によく登場する雪豹とウリコさんのペット猫プロホルちゃんだったと言われています。
ソグディアナの兵士達が使用た赤い丸盾の中心に翼のある雪豹が描かれています。豹はサマルカンドに来る旅行者を祝福しているように前足を挙げています。豹の下にゼラフシャン川を象徴する波状のゴルド色のベルトがあります。「ゼラフシャン」はペルシア語で「ゴルドを齎す川」という意味です。盾の上の方の七芒星は科学、アートと建築術の統一のシンボル、又、宇宙の神秘的な図形でもあると言われています。

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